『ローマ人の物語ーハンニバル戦記』上中下 3~5巻

ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫) ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫) ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)
塩野七生 (新潮社 新潮文庫

カルタゴの名将ハンニバル世界史を習ったことのある人間ならば、彼の名前だけは憶えている人も多いのではなかろうか。教科書ではたった数行のみの言及にもかかわらず。
この『ローマ人の物語』3〜5巻では、第一次ポエニ戦役の開始から第三次ポエニ戦役でカルタゴが滅亡するまでを縦糸とし、そこに現れるハンニバル・バルカやスキピオ・アフリカヌスといった人物を横糸として織り上げることでローマの歴史を物語っている。


紀元前246年、シチリア都市国家を巡る争いを発端として、ローマ-カルタゴ間に後に第一次ポエニ戦役と呼ばれることになる戦争が始まる。この戦争カルタゴ将軍として活躍するのがハミルカル・バルカ。ハンニバルの父親である。しかしながらカルタゴ上層部との意思疎通が上手く行かず、結果として彼は戦死し、この戦争はローマ側に有利な条約の締結により、終了する。
しかし、この時点で第二次ポエニ戦役の種は播かれていたのだ。父親をローマ人に殺されたハンニバルは復讐を誓う。まずは足下を固めるためにイベリア半島を制圧し、カルタゴ領というよりもむしろバルカ領とでもいうべき領地を築く。そこから彼のローマ壊滅のための復讐劇が幕を開けるのだ。紀元前218年、地中海を陸伝いに5万の兵と 40頭ほどの象を従えて、アルプス山脈を越えてイタリアに侵攻する。29歳の彼は騎兵を有機的に運用する戦術により、以降16年間ローマ軍に対して常勝を収める。

ここにもう一つの因縁が生まれる。父親をイベリア半島ハンニバルの弟との戦争で亡くし、舅もイタリアにおいてハンニバルに倒され、自身もハンニバルの戦術を数度目の当たりにしたプブリウス・コルネリウススキピオ、後にスキピオ・アフリカヌスと呼ばれることになるもう一人の名将の台頭だ。紀元前210年、若干25歳の若者は父親の遺志を継ぎ、ハンニバルのお膝元であるイベリア半島の制圧に乗り出す。これを成し遂げた彼の次の目的地はカルタゴだった…。
彼は混戦でも使い勝手の良い剣を作り、戦術としてハンニバルの得意とする騎兵を活用するものを採用した。結果としてカルタゴ相手に講和条約を締結させ、イタリアからハンニバルを退却させるに至る。その後、紀元前202年にカルタゴ領内のザマにおける戦いでハンニバルを破り、「アフリカを制する者」の意であるアフリカヌスという称号付きで呼ばれることになるわけだ。

そんな名将達も最後はあっけないものだ。ハンニバルはローマの追手から逃れる為にシリアに移った後、一度ローマとの戦いに参加しているが、その後はヘレニズムの地で服毒自殺を図っている。スキピオに関しては政敵カトーに破れ元老院から追われ、自身の地元で死亡している。

ハンニバルはローマに対して忘れがたい恐怖を与えた。本書に、子供を諭す言葉として「戸口にハンニバルが来るぞ」というものが挙げられていたのが面白い。そこまで彼の所行はローマの人々の心にのしかかっていたのだ。だからこそ、カトーカルタゴ壊滅派としてスキピオを失脚させ、結果としてカルタゴを壊滅させた。
しかし逆に言えば、ローマ人は恐怖だけでなく教訓として「ハンニバル戦争」をとらえることができた。戦術を学び外交政策でも変化の兆しを見ることができる。「ハンニバル以前」と「ハンニバル以降」という分け方もできるのではなかろうか。
何よりも驚くのは、二千二百年前の出来事なのに記録がしっかりと残っていること。兵の運用数から戦闘の隊列、果ては死傷者に至るまでの数。こういった詳細な記録が残っているおかげで、遠い古代の話、歴史の教科書の中の人物伝ではなくて、血肉を備えた男達の戦いを感じ取ることができるのだ。

そこらへんに溢れている下手な架空戦記ものなんかよりも、断然面白い。
是非読むべきだ。